| 2014/04/14 | 日本画家入江波光は、6月9日京都市上京区の自宅で胃病のため逝去。享年62。明治20年京都市に生れた。本名幾治郎。同35年森本東閣に師事、この年京都市立美術工芸学校に入学、同38年卒業。同40年同校研究科に入学、同42年京都市立絵画専門学校新設され、その第2学年に入学し、同44年卒業した。この間明治40年第1回文展に「夕月」を出品入選した。大正2年京都市立美術工芸学校教諭に任ぜられ、同7年絵画専門学校助教授となり、国画創作協会に「降魔」を出品、授賞された。同8年同協会同人となり、第2回展に「臨海の村」、翌9年第3回展に「彼岸」を発表した。同11年京都府から英、米、伊へ出張を命ぜられ、同12年帰朝。同13年第4回国展に「虹」、同14年の第5回国展に「ローマ郊外」、昭和3年第7回国展に「摘草」を発表した。同11年京都絵画専門学校教授に進み、同13年北京、大同に出張、翌15年朝鮮美術展審査のため朝鮮に出張した。同15年文部省から法隆寺壁画の模写を依嘱され、晩年はほとんどこれに没頭した。その間仏画及び水墨画に、洗練された技法を示した。 |
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日本美術協会審査員狩野探道は6月4日心臓麻痺のため東京中野の自宅で死去した。享年59。名を守久といい、明治23年東京に生れた。探幽を祖とする鍛冶橋狩野家の12世で、明治36年14歳で狩野応信に就き始めて狩野派の画法を学び、その没後荒木探令に師事した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業以降専ら日本美術協会に出品し、同会委員、同会第一部審査委員、展覧会幹事をつとめた。代表作に東京都養正館壁画「天孫降臨図」美術協会第100回展出品の「徐上小景」等がある。 |
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日本画家小早川清は4月4日東京都大田区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年50。明治32年福岡市博多に生れた。大正13年第5回帝展に入選して以来帝展に出品を続け、第14回展の「旗亭凉宵」は特選となつた。昭和11年以後は文展無鑑査となり、その他日本画会、青衿会等にも会員として多くの作品を発表していた。専ら艶麗な美人画を画き、帝展時代には長崎を舞台とした異国情緒の溢れた画材を好んで画いた。帝展出品作に「長崎のお菊さん」「蘭館婦女の図」、文展に「春琴」「行く春」等がある。 |
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京都美術専門学校教授、日本画家として知られた中村大三郎は9月14日膽石病で京都市右京区の自宅で療養中、腸閉塞を併発し死去した。年50。明治31年京都に生れ、大正8年京都絵画専門学校を卒業、在学中文展12回に「懺悔」を出して入選、帝展2回「静夜聞香」4回「燈籠大臣」は特選となり、その後「婦女」「髪」などの印象的な現代女性をえがいて進出した。審査員をつとめること数回、昭和10年には帝国美術院指定となり、かたわら母校に教鞭をとつていた。後期の作品としては「三井寺」(新文3)、「鸚鵡小町」(奉)、「山本元帥」(新文6)などがある。 |
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日展無鑑査の日本画家安田半圃は9月8日疎開先の熱海市で耳下腺肉腫のため死去した。享年59。別号光見、名は太郎、明治22年新潟県に生れ、水田竹圃にまなび、文展11、12回に入選、帝展には10回出品して推薦となつた。南画院の同人として南画山水を主とし、新文展にも出品していた。 |
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日本画家野口謙次郎は5月21日死去した。享年50。明治31年佐賀県に生れ、大正12年東京美術学校日本画科を卒業した。大正10年第3回帝展以後官展に出品し、昭和15年第15回帝展には「奥入瀬」に特選を受けた。 |
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美人画家として知られた関西画壇の重鎮北野恒富は5月20日大阪府中河内郡の自宅で心臓麻痺のため急死した。享年68。明治13年金沢に生れ、名は富太郎、都路華香につき、大阪に出て野田九浦らと大正美術会をおこし、大正4年大阪美術会を創立、同7年には水田竹圃らと茶話会を設立した。文展第4回に「すだく虫」、5回に「日照雨」を出して知られ、大正3年再興美術院展が開かれると共にこれに作品を発表、大正6年同人となり、情緒濃厚な美人画によって特異の存在をうたわれた。昭和10年帝国美術院無鑑査に指定された。院展の出品作を列記すれば、「願の糸」(1)、「鏡の前」(2)、「道頓堀」(3)、「湯の宿」(6)、「茶々」(8)、「夕べ」(10)、「浴後」(11)、「むすめ」(12)、「涼み」(13)、「朝」(14)、「宵宮の雨」(15)、「戯れ」(16)、「阿波踊」(17)、「宝恵籠」(18)、「口三味線」(20)、「花」(22)、「大童山」(23)、「お茶室へ」(24)、「五月雨」(25)、「夕空」(26)、「幾松」(28)、「真葛庵の蓮月」(29)、「薊」(30)があり、そのほか聖徳記念絵画館壁画の「御深曽木」新帝展の「いとさん、こいさん」などの注目される作がある。 |
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日本画家石崎光瑤は3月25日死去した。享年64。明治17年富山県に生れ、竹内栖鳳に師事した。大正元年第6回文展に入選以来毎回出品し、文帝展審査員をつとめた。大正5、6年及び昭和8年に印度に旅行し、大正11、12年には欧州を巡つた。昭和10年帝国美術院改組とともに指定となり、昭和11年に京都市立美術専門学校教授におされた。帝国美術院賞をうけた「熱国研春」や「燦雨」「春律」等の代表作があり、写実を生かした華やかな装飾画風を示した。 |
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閨秀日本画家木谷千種は1月24日大阪府河内郡の自宅で死去した。享年53。名を英といい、吉岡政二郎の女として明治28年大阪に生れた。池田蕉園、北野恒富、菊池契月に師事し、大正4年文展第9回以来官展に出品、女性的な人物画をよくした。近松研究家木谷蓬吟の夫人で私塾「八千草会」を開き後進の指導にも当つていた。 |
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京都市立美術専門学校助教授、晨鳥社同人、前田荻邨は1月19日京都市上京区寺町今出川の自宅に於て心臓麻痺で死去した。享年53。本名を八十八といい、明治28年兵庫県に生れた。大正5年京都市立美術工芸学校、同8年京都市立絵画専門学校、同10[※11とあるのを10に修正してある]年同校研究科を卒業した。なおこの間西村五雲画塾に学んだ。第2回展以後引続き帝展に作品を発表し、昭和6年第12回展の「潮」は特選となり、同9年には帝展推薦となつた。新文展以後は無鑑査として活動を続け、西村五雲の門弟により組織されている晨鳥社の総務を勤めていた。他方京都市立美術学校教諭、京都市立絵画専門学校助教授として教育面に力を尽していた。 |
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旧新美術人協会々員柴田安子は7月27日世田谷区の自宅で逝去した。明治40年9月秋田県平鹿郡の素封家に生れ、番町、千代田高等女学校卒業後松岡映丘に師事し、木之華社会員となり、次いで青龍社に作品を発表した。昭和13年福田豊四郎、吉岡堅二らにより、新美術人協会が設立されてからは同会々員として毎年新傾向の日本画を発表し、注目された。戦後新日本画の革新を目指して起つた創造美術の結成を前に死去したものである。 |
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日本画院同人吉田秋光は山梨県中巨摩郡の疎開先で6月21日急性肺炎で死去した。享年60。本名は清二、明治20年金沢に生れ、同43年東京美術学校日本画科を卒業した。大正6年第11回文展以来、帝展・新文展等に出品、第4回帝展には特選となりその後無監査・審査員等として活躍した。そのほか日本画院同人、巴会々員であつた。 |
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日本画家赤井龍民は12月1日北海道の旅先にて客死した。享年48。名は義一、明治31年兵庫県に生れ、大正7年入洛して菊池契月の門下となり、大正11年第4回帝展に「乳搾る家」が初入選し、第7回帝展に「島影暮韻」入選、その後数度入選していた。 |
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旧帝展審査員飛田周山は11月22日逝去した。享年69。本名正雄。明治10年茨城県に生れ、20歳の時から久保田米僊に学び、後竹内栖鳳に学び、更に前期日本美術院研究科に入り、傍、橋本雅邦に師事した。39年文部省より国定教科書の挿絵を嘱託されてから昭和16年まで従事した。大正元年第6回文展に「天女の巻」を出し褒状を受け、第9回文展に「星合のそら」を出し再び褒状を受け、爾来毎回出品し特選を受ける事2回に及び、大正9年第2回帝展に「文殊菩薩」を出しこの年から無鑑査出品となつた。第6回帝展以来審査委員となり、改組文展になつてからも出品を続け、一方日本画院にも属して作品を発表していた。 |
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文展無鑑査尾竹国観は5月18日疎開先で逝去した。享年61。名亀吉、明治13年新潟市に生れ、高橋大華、小堀鞆音に師事、15歳にして富山博覧会で褒状を得、爾来、日本美術協会、各地の絵画共進会、前期日本美術院、各種勧業博覧会等に出品、しばしば受賞して声明をあげた。文展へは第3回に「油断」を出して一挙に2等賞、5回に「人真似」(3等賞)「忍耐」、6回に「勝鬨」(褒状)、8回「仮睡」、9回「血路」(3等賞)、10回「文姫帰漠」、11回「住吉」 12回「磯」と活躍したが 後年は振わなかつた。兄に尾竹越堂、竹坡があり、兄弟作家として知られていた。門下に織田観潮等がある。 |
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文展無鑑査、日本美術院同人荒井寛方は4月21日※旅先の福島県郡山市で急逝した。享年68。本名寛十郎。明治11年栃木県に生れ、22歳の時上京、水野年方の門に入り歴史画を研究した。明治40年第1回文展に入選、第2回には「出陣」を出品して3等賞に推され、3回4回5回文展に続けて入賞、第7回には「来迎」を出品した。大正4年日本美術院第2回展に「乳糜供養」を出品して同人に推され、翌大正5年タゴール翁に招かれて渡印、彼地の美術学校に教鞭をとり其間アジャンター洞窟に赴き壁画を模写した。大正7年帰朝の後は専ら院展に出品し、仏教的題材を印度の壁画やミニアチュールの表現を取入れて描いた。大正15年渡欧、ローマの史蹟を探り帰朝後も毎年院展に仏画を出品、昭和14年法隆寺壁画模写を文部省より依嘱され、15年以来専心模写を続けたが未だ完成を見ない中に急逝したのは誠に惜しむべきであつた。著作に「阿弥陀院雑記」がある。 |
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日本美術協会委員野口小蕙は4月2日脳溢血の為死去した。享年68。名は郁、明治11年東京に生れ、母小蘋に師事し南画をよくした。14歳のときはじめて日本美術協会に出品、その後種々の展覧会に作品を発表して名を知られた。かつて小室翠雲の夫人であつたが故あつて離別したものである。 |
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帝室技芸員、帝国芸術院会員小室翠雲は3月30日帝大病院で逝去した。享年72。名貞次郎、明治7年群馬県に生れ、南画を田崎早雲に学んで、日本美術協会でしばしば受賞、同協会委員、日本画会及び南画会の幹事として次第に名声をあげた。明治40年には高島北海、望月金鳳、荒木十畝、佐久間鉄園、山岡米華、田中頼嶂、益頭峻南などとともに正派同志会を組織して文展新派に対抗、文展第9回以来審査員として、「青山白雲」「雪中山水」「春景秋景山水」「四時佳興」はいずれも3等賞をうけ、第7回の「寒林幽居」はことに好評で2等賞におされた。帝展にも1回以来しばしば審査員をつとめ、大正11年には渡支して画嚢を肥した。13年帝国美術院会員となり、以後南画壇の重鎮として大いに活躍、昭和6年にはベルリン日本画展に際して渡欧、その滞欧作を日本南画院10回展に陳列した。帝展時代の主要作としては「広寒宮」「南船北馬」「周濂渓」「田家新味」「承徳佳望」などがあり、いずれも現代南画の高峰をを示す生々とした作である。官展以外には日本南画院を指導し、昭和17年には大東南宗院を設立して、日華南画壇の交歓をはかつた。絵のほか漢詩、書もすぐれ、昭和19年には帝室技芸員の一人に加つたところであつた。 |
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帝室技芸員、帝国芸術院会員橋本関雪は2月26日京都の自邸で狭心症のため逝去した。享年63。名関一、明治16年旧明石藩の漢学者橋本海関の息として生れ、家学を父にうけたが、まもなく片岡公曠に南画を学び、36年には竹内栖鳳門に入つて画技をすすめた。38年には日露役に従軍、41年には上京して谷中に寓居し、第2回文展以後連続出品して屡々受賞、大正8年帝展第1回から審査員として活躍した。文展では「失意」「琵琶行」「片岡山のほとり」「松下煎茗」等に褒状、「遅日」「南国」「猟」は2等賞、「寒山拾得」「倪雲林」はいずれも特選、推薦となつた第12回では「木蘭」を出していよいよ名声をあげた。大正2年初めて中国に渡り、その後中国旅行は60数回に及んでいる。大正10年渡欧してフランス、ドイツ、イタリヤを歴遊、昭和2年にも再度渡欧した。昭和9年帝室技芸員におされ、10年の改組では帝国芸術院会員となつた。帝展時代に入つて「木蘭詩」「聖地の旅」「長恨歌」「訪隠図」「玄猿」などの優作があり、暢達自在の筆技と覇気あふれた豪快な風格をもつてうたわれた。晩年の力作としては建仁寺の襖絵が著名であつた。支那風物地誌についての造詣も深く、文章、詩、短歌にも、独自の格調を盛つている。著作も数多く、「関雪随筆」「南画への道程」「石涛」「浦上玉堂」「支那山水随緑」「南を翔ける」等があり、その他非売品として出したものに「走井」「不離心帖」「玉堂事考」「国民百人一首」などがある。 |
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文展無鑑査山川秀峰は12月29日脳溢血の為逝去した。享年47。本名嘉雄、明治31年京都に生れ、鏑木清方・池上秀畝に師事した。昭和3年第9回帝展に「安倍野」を出品して特選となり、11回帝展の「大谷武子姫」は再び特選、翌6年には無鑑査となつた。第13回展の「序の舞」、二千六百年奉祝展の「信濃路の女」等の優品がある。また青衿会を伊東深水と共に催し、美人画の開拓に努めていた。 |